みちのくの古都平泉は、平安末から鎌倉時代にかけて、奥州藤原氏四代の栄華を実現させた地で、中尊寺、毛越寺は、平泉文化の中心として栄え、光輝く金色堂や浄土庭園が黄金文化の象徴となっています。
平泉の歴史は11世紀中頃、前九年の役、後三年の役と呼ばれる大戦があり、その戦いに勝ったのが奥州藤原氏初代の清衡です。以後平泉に本拠地をおいた清衡が奥羽地方で支配権を確立し、約100年の間、三代にわたって栄華を極めました。
清衡は戦いで失われた人を弔い、仏国土を建設しようと、多数の堂塔を建てました。清衡が建てた金色堂には、今も藤原四代のご遺体が安置されています。
二代基衡は豊富な財力をもとに政治を行ない、毛越寺を建立し、清衡と同じく豪族最高位に任命されました。
三代秀衡は陸奥守に任じられ、柳之御所を含む区画整備を行ない、平泉の都市を完成しました。秀衡のもとに、頼朝に追われた義経が身を寄せていましたが、秀衡の跡を継いだ四代泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を死に追いやりました。
しかし、頼朝は奥州を支配下におきたかったので、義経をかくまったことを口実に奥州征伐を強行し、奥州藤原氏は滅んでしまいました。
また、旅の詩人松尾芭蕉が「おくのほそ道」で平泉を熱く切なく謳いあげたことでも知られています。
元禄2年(1689)この地を訪れた芭蕉は、悲運の源義経主従をしのび「夏草や兵どもが夢の跡」や「五月雨の降りのこしてや光堂」など名句を詠っています。
毛越寺は嘉祥3年(850)慈覚大師の開基で、その後藤原清衡、基衡により中興され、隆盛を極めました。
毛越寺には、平安時代の庭園遺跡がほぼ完全に残っており、東北地方のみならず、我が国を代表する典型的な浄土式庭園として、特別史跡・特別名勝の二重指定を受けています。
毛越寺庭園は、浄水をたたえる広さ約1万2千坪の大泉が池と中島があり、その周囲はやわらかい曲線を描いた砂洲と入江があり洲浜の美しさを表現している。
出島の石組は池水に洗われ、荒磯の趣きは充分である。出島の先の飛島には鋭く傾斜した石が天に向かってそそり立っており、庭全体を鋭く引き締めている。
池に大きく蛇行しながら流れ込んでいる遺水は、水底に美しく石を敷き、水流の中に様々な石組みを配し、耳にも目にも美しい心地よさを味わうことができます。
5月に催される「曲水の宴」では、遺水を舞台にして平安時代の優雅な遊びが再現されています。
また本庭は、石の立て方、干潟様の出島、護岸石組みなど、細部の手法はいずれも「作庭記」の教えを忠実に守っており、地方の庭園にありがちな京の名園の写しという次元を、はるかに超えている。
平泉は毛越寺・中尊寺をはじめとする文化遺産が世界遺産推薦暫定リストに登録されました。平泉町では世界遺産の登録に向けて運動を展開しています。
(岩手県支部)
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